2018年01月22日

人事評価:伝統的感覚と新たな基準

 様々な社内制度の中に人事評価制度と呼ばれるものがあります。これは、文字通り人材を評価して、その給与や役職などを決める基準となるものです。
 しかし一般の企業経営で、人事評価制度、あるいは人事評価が経営の大きなテーマになることは、あまりなかったように思います。
 経営者の皆様の間でも、人事評価制度はあったらいいなとは思うけれど、実際に熱心に作成に取り組むほどの動機は持てない方が少なくないのかも知れません。
 新しい制度や考え方が普及しにくい背景には、年功序列制度が、今も私たちの心の深いところで生きているからかも知れません。実力主義の典型であるプロ野球の世界でさえ選手間の年功や年齢意識は強いようですので、表面に見えるほど、私たちの感覚は成果主義にも能力主義にも移行し切れてはいないのです。

 
年功序列は、経営者や管理者にとって、相当に便利な制度でした。それは、特別に個人を観察したり評価したりしなくても年齢や勤続年数など客観的な要素で処遇を決めることができたからです。
 従業員の間でも、仮に仕事の中心が若いAさんでありながら、年齢も勤続年数も上のBさんの方が給与や地位が高くても、なんとなくそれが自然であるかのように感じることができました。

 しかし、そうした古きよき時代の現実は、今や定年延長一つをとってみただけでも、成り立たなくなったと分かります。それは、たとえば60歳を過ぎた人材が、組織で最も高い給与と高い地位を得るというのが、今日の競争社会では、あり得ないほど奇異になってしまったからです。
 そのために、とにかく若くても、勤続年数が短くても、組織に有益な人材の方を厚く処遇したいとする動きが当たり前のように出てきて、もはや年功序列の時代は終わったことが常識にもなりました。

 ところが、終わったはずの年功序列時代の一つの癖が、今も無意識的に引きずられてしまっているケースでは、
・新しい人材評価制度を作ったが、うまく運用できない
・年功序列は疑問でも成果主義や能力主義にピンとこないという実感が根強く残っているかも知れません。
 そしてその強い伝統的感覚が、新しい人材制度自体をも、分かりにくい複雑なものにしてしまっている気がするのです。
 その年功序列時代の一つの癖とは、人事評価を客観的で万能な数値で捉えようとする感覚ではないかと思います。
 年功序列時代は年齢や勤続年数など、誰が見ても明らかな評価基準がありましたが、それに代わる成果主義や能力主義にも、同じように、誰の目にも明らかな客観基準を作りたがってしまう傾向が、私たちにないだろうかという疑問です。
 その人材に「何ができるか」という業務遂行能力を基準に評価する能力主義でも、営業と経理のような異なる職能でどう評価を変えるかなどという基本的な問題にぶつかります。

 それでも強引に、業績主義や能力主義を導入すると、自分たちはきちんと評価されていないという、従業員の不満を生み出してしまうのです。
 ではいったいどうすればよいのでしょう。どうすれば、高齢化社会・競争社会にはそぐわない年功序列を脱却し、納得性の高い、不満の少ない新しい制度を導入することができるのでしょうか。

 年功序列とは、評価は客観的な数値で行うべきで、行い得るものだという一種の哲学のようなもので、その必要以上の、あるいは無意識の超客観主義が、新しい制度を複雑にしてしまい、その導入自体をピンと来ないものにしてしまっているのではないかということです。
 むしろ評価に自動性を与えてくれた年功序列の存在を忘れ、つまり客観的な基準をいかに作るかではなく、原点に戻って「人材の努力に公平に報いる」にはどうするかを考えるなら、複雑な方式よりも、もっと容易でもっと効果的な視点が浮かび上がってくるように思うということです。
 いずれにしても、絶対的尺度を失った現在、人事評価を考えるには、新しい視点が必要です。
 その新しい視点とは、評価の基準ではなく「人材を見る基準」を持つことです。具体的には、各人材に何をして欲しいのか、その役割や成果の期待を明確にすることです。
 「これと、これをこうして欲しい」とあらかじめ決めようとすると、それだけでも経営者や管理者は人材を見るようになるでしょうし、それができたかどうかをチェックする姿勢を持てば、更に人材を深く見るとともに、人材にも見られていることを実感できる機会が増えることになるはずです。

 経営者が全従業員を見ることができないケースでは、経営者が管理者の役割期待とその実施チェックをし、管理者にはその部門の人材に同じようなことをしてもらうことで、問題は軽減されるはずです。
 部門の人材の仕事の作り方やそのチェックを見れば、その管理者が管理者として適性かどうかの判断もしやすくなるでしょう。部下の仕事を明確にし、何を期待するかを語れないならば、それだけで管理者としては失格だからです。

 評価基準ではなく「見る基準」を持てば、それで人事評価が完成するわけではありません。賃金や退職金の支払条件や昇進の決定条件を具体的に決めなければならないからです。しかしいかなる条件設定をしても適切に見ることを制度化し、従業員にも「経営者が見るというのはこういうことなのだ」と分かる形を持たなければ、運用は難しくなるばかりでしょう。
 能力や業績などの間接材料だけではなく、経営者や管理者が「こうして欲しい」と要望したことができたかどうかを評価するなら、そこには経営者のニーズに応えようとするプロ意識も生まれ得るのではないでしょうか。
 経営者がこうして欲しいと明確な姿勢を持つことには、給与の不満を軽減する以上の意味があるはずです。



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